着物の達人講座

『着物の達人講座』 壱 「着物は凄い!」

 まず、着物を着る前に世界でも類を見ない程素晴らしい衣服で有る着物の、特筆すべき特徴について極大雑把に基本的な事をお話しする。

 先ず第一は、着物には「あちこちに貯金が有る」と言う事である。

 着物に貯金とは?

 一番最初に着物を仕立てる時には湯伸しをして、布目を整えて裁断をする。その時、各パーツとも反物と仕立てる着物の寸法を勘案して、余分な生地を長目に裁断し、身丈は内揚げに、袖丈、身幅、衽は縫い込む。これが着物の貯金である。

 次に仕立て替える時、この貯金を使えば、最初に仕立てた時よりかなり大きいサイズにも仕立替えることが出来るのである。

 それ程大変な特徴とも言えないように感じるが、洋服では出来ない事が、まるで手品のように出来るのである。

 例えば女物を男物に、痩せた人の物を太った人に、反対に太った人の物を瘠せた人に、また、着物から道行きコートなどに仕立替える事等は自在にできる。

 着物は一反(約三六センチから約四三センチ巾、長さ約一二メートル位の布を裁断して仕立てる。全て直線裁断、袖の丸み以外はほぼ直線縫である。

 単衣(裏地を付けない仕立て)の長着の場合、身頃×2、衽×2、袖×2、地衿、掛け衿の八枚のパーツに裁断し、縫い合わせる。

 袷仕立ての場合、それに胴裏、(額仕立ての場合は、胴裏と八掛)が必要となる。

 洗濯は「丸洗い」「生き洗い」「京洗い」などと呼ばれている着物を解かずに洗う方法も有るが仕立替える場合は全て解いて、八枚の長方形のパーツを元の反物の形に縫い合わせて一反の布に戻し(端縫と言う)洗濯をし、伸子張り等をして布目を整える。(この一連の作業を洗い張りと言う。現在悉皆屋さんでは殆ど機械化されている)

 仕立て直す時は貯金として縫い込んであった内揚げや身幅の縫い込みなども洗い張りの時に解いてあるので新しい反物のように生地幅一杯、裁断した身丈、袖丈、衽丈一杯まで自在に大きくも小さくもできる。

 但し、洗い張りをして仕立替えれば、洗い張り代プラスお仕立て代が必要となる。

 着物の意匠(色、柄等)は時代と共に流行が有っても裁断や縫製等、仕立の基本は数百年来現在に至るまで殆ど変化が無い。

 着物は手入れを怠らなければ親子三代に渡って、約百年位は着られると言われている。最初に仕立てる時に百年後に着るであろう人の事迄も考えて仕立てられているのである。着物は先人達の智慧と工夫の固まりなのだ。

 着物を百年着る為には方々に貯めた貯金を始め、取り上げれば切りがない程の先人達の智慧と工夫がなされているのである。

 様々な体格の人にも着られる様に仕立て直す事が出来る為の工夫をし、高価な生地を出来るだけ痛めないよう様々な工夫をして、その工夫をデザインの一部として昇華させている事が世界で類を見ない特徴である。その工夫などについては別項でお話しする。

 次に大きな特徴としては「畳める」と言う事である。これも又何でもない事のようであるが非常に重要な事なのである。

 着物は平面仕立てなので平面的に畳む事が出来る。又、畳んで重ねる事も出来るので旅行や収納時にはかさばらない。

 洋服は立体仕立で有り、曲線裁断の部分が多く、畳むとどうしても洋服の立体感が損なわれる。無理に畳んだとしても重ねて収納すると大きくかさばり、皺も出来る。

 次の特徴としては着物の着こなしや利用方法は様々だと言う事である

 最近は海外からのお客様も多く、着物や羽織はお土産品としても人気が高い様だ。羽織は洋服の上にジャケットとして、着物や長襦袢はローブとして、その他にも日本人では思いもよらないような使われ方をしている。また、衣類としての役割を終えた着物や帯はテーブルランナーやタペストリー、ランチョンマット等様々にリメイクして使われている。

 また日本でも、明治以降戦前までは立ち襟のシャツの上に着物を着たり、袴にブーツを履いたり、最近ではタートルのセーターの上に着物を着ている人も見かけるが、それが全く不自然ではないのだ。着物や着物地の持つフレキシビリティとキャパシティの大きさには敬服の限りである。

 近では着物地は洋服にリメイクしたり、小物を作ったりと、いろいろに使われているが、昔も今以上にいろいろな物にリメイクされていた。

 昔から「着物の生地は小豆三粒包める物は捨ててはいけない」と言われていた。それ程布地を大切にしたのである。

 繰り廻しと言って長着から袢纏や襦袢、布団側に。余った端裂はお手玉などを作ったり、人形の衣裳にしたり又、金襴や緞子などは剪れ取り(パッチワーク)にして帯等を作ったり、端裂はお守り袋など小物にした。

 その他木綿の浴衣などは子供の「おしめ」や最後には雑巾に使っていた。

 諸外国の人は絹に対するあこがれが日本人より強い様である。何しろ上質な絹で出来た物である。一般庶民がこれ程気軽に絹で出来た衣類を着る事は諸外国では考えられない事であろう。日本の着物のように絹の衣類を何枚も重ねて着ている贅沢な国は世界中探しても殆ど無いと思われる。

「着物は「着る」「物」?「売る物」?」

 しかし、残念ながら、着物は着る為の様々な智慧や知識が忘れ去られようとしているのではないかと思われる。

 着物に携わる人でも商品としての着物については博識でも如何に着こなすかに付いては正に寂しい限りである。今更言うまでも無いが着物は「着る」「物」である。

 「物」については古来からの技術に新進の技術を加え素晴らしい物が数多く作られ、正に芸術作品と呼ぶべき程の物も数多い。

 しかしながら「着る」事についての知識や情報がきちんと伝わっていないのである。

 その原因の一つには極少数の人を除いて残念ながら着物に携わる人達自身が日常着として着物を着ていないのでは無いのではないかと思われる。着物に携わる人にこそ先ず、きものを着て欲しい。そして着物を着る上での様々な情報、着物を着ている人でなければ解らない「着る事」についての情報を発信して欲しい。

 着物は「着る物」ではなく「売る物」として細々と流通して居る状態である。

 着物は「着る」「物」である。正に「着てこそ着物」日常の生活の中で着てこそ、着物に合った立ち居振る舞い、着こなしが身につき、本来の着物の魅力が発揮される。

 また、恐ろしい事に現在では「着こなし」特に男の着物の「着こなし」については古来からの知識や常識が殆ど伝わっていないか、だんだんとゆがめられた情報が伝わっているらしい。

 テレビの番組などで着物を着て出演して居るタレントさん、特に男性の着物姿には、はらはらとさせられる。衣裳部さんも、ディレクターも着物スタイリストも付いていてもその有様である。

 最近では着物の「物」の部分、商品としての「物」だけが注目され、肝心の着物は「着る物」であるという事が忘れられている様に思える。

 確かに着物の「物」の部分は重要である。 なぜなら「物」が無ければ「着る」も無くなる。

 多くの服飾研究家や織、染め、その他着物に関わる研究をしている先生方を始め、実際に着物作りに携わっている作家さんや技術者の皆さんのたゆまぬ努力が有ってこそ、世界に類を見ない程素晴らしい着物が出来ている。

 「物」が無ければ「着る」も無くなると先ほど述べたが、逆もまた真なり「着る」が無ければ「物」も無くなる。すなわち着る人が居なくなれば着物は売れなくなり当然作られなくなるであろう。

 「物」側の人、即ち着物を作る或いは流通に携わる人と「着る」側の人、即ち消費者との間に着物に対する意識が大きく乖離してきているように思えてならない。

 殆ど着物を着たことが無い人達が糸を紡ぎ、生地を織り、染めて、仕立て、販売しているのが現状です。即ち着物を「着る」という文化を置き去りにして「物」は作られ、「物」は流通されているのである。

 着物の「物」については熟知していても「着る」事を知らないで作り出される「着物」は、着物というよりは着物をテーマとした作品であり、美術品、芸術品として進化?してしまい、だんだん庶民の手の届かない物、観賞用の物となろうとしている。着物に携わる人が先ず率先して着物を常着として着て欲しい。着物は先ず「常着」が有って特別な日には「晴れ着」を着る。これが本来の着物の姿では無いであろうか。

 拙いながら本書を一助として一人でも多くの着物の達人が生まれ、着物が常着となる日を目指して日々着物に親しんで貰いたいと思います。

「着物の寸法と仕立てについて」

 縫製にしても然り、着物は体に合わせて纏う物なので身丈などは五分や一寸位違っていても着慣れた人や、着付ける人の技術でなんとでも誤魔化せる。しかし、それはあくまでも誤魔化しであり、その場の方便に過ぎない。

 本来、着物の寸法は一分一厘違っても着心地の悪い物である。特に男性用の着物は対丈(お端折りが無い)なのでごまかすにも限界がある。

 体型を無視して、身長とヒップ廻り、裄丈のみを聞いただけで出来上がってくる着物が着心地が良いはずがない。同じ一七〇センチの人でも六〇㎏の人と、九〇㎏の人では身丈は体型に依っては五㎝以上も違う。体に沿った採寸が必須である。

 それは売る側にも買う側にも責任がある。売る側の人ですら「衽下がり」が五分違うとどうなるか「抱き幅」をどの位にしたらいいのか、「前巾」「後巾」は・・・?。

 細かい寸法は着る人の好みにより随分と違う。身丈も引きずるほど長めが好きな人も、足首が見えるほど短いのが好きな人も、裄丈も腕の踝が見えるほど短いのが好きな人も、手のひらに掛かる位長いのが好きな人も居る。

 筆者は着物初心者には身丈を少し長めに(一見着慣れた様に見えるし、ごまかしが利く)裄丈は短めに(着慣れるまでは袂捌きが上手くできないので袂を汚してしまう事が多い)とお勧めしている。

 百人百通り、自分で毎日「どうして?」「なぜ?」という疑問を持ちながら、注意深く着物を着て、試行錯誤をして、何枚も着潰す程着て、自分の着物の寸法を見つけ出して欲しい。決して高価な物だけが良いのではない。高価な物より自分の寸法に合った物を着るのが着る人を引き立たせてくれる着物である。それには取り敢えず着る事である。多少寸法が合わなくても何とか着られるのが着物の素晴らしい処、とにかく着て見て「どうして前がはだけるのか」とか「何処がどれだけ大きいか」等常に疑問を持って着る事である。疑問を持ちながら着ていると自ずから答えが解ってくる。

 信頼の置けるお店とよきアドバイザーに出会える事を祈る。

 毎日洋服で暮らしている人には理解し難い事であろう。

 今も昔も買う側の人は、売る側の人を着物については何でも知っているプロフェッショナルだと信頼している。だから出来上がりが間違っていてもこんな物だと何の疑問も持たないでお金を払ってしまう。

 着物業界もつい近年までは先人たちの知恵と知識の伝承と一部の人の研究と努力で何とか事足りていた。しかし先人の知恵や知識も三代も下れば電報ゲームの様に徐々に歪められて伝わってきている。また怖い事に間違っている事すら解らなくなっているのである。

 実際にあった怖いお話しである。大幅(生地幅が約二倍ある幅の広い生地のこと)の額裏長襦袢背縫いを入れて、背中の絵柄が途切れてしまったっり、(意気な男性は額裏や長襦袢に凝ったそうだ)どう考えても裁断ミスか縫製ミスとしか考えられない。柄合わせの出来ていない訪問着など、一昔前には考えられなかったような事故?が起きている。

 その事故を事故と思わないで着ている消費者こそ気の毒である。着物は今、着る事の文化が次第に忘れ去られようとしている。

 「消費者よ賢くなれ」と叫びたい気持ちで一杯である。これから私と一緒に着物の物」ではなく「着る」の知識を身につけて戴きたい。「着る」が解れば自然と「物」も解ってくる。それが本来の順序なのではないだろうか。

 「着る」は文化であり「物」は文明の産物である。

 文化の裏付けの無い文明は滅びてしまう。 着物はその名の通り「着る」と「物」とのバランスがとれてこそ益々の発展を遂げる事で有ろう。

 その他数え上げれば切りがない程豪華で合理的で素晴らしい着物ついて順次少しずつお話しをする。乞うご期待。

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